どうも、木村(@kimu3_slime)です。
藤田直哉『娯楽としての炎上――ポスト・トゥルース時代のミステリ』を読みました。
僕はもともとミステリや批評に興味を持っていたわけではありませんでした。が、「プレイヤーはどこへ行くのか」の藤田さんの論考が面白かったこと、ネット・炎上をテーマにしていたことから手に取りました。
フェイクニュース、あるいはポスト・トゥルースという言葉が流行する時代よりも先に、ミステリは論理や証拠が必要ではない世界での推理を考えてきた、先見性がある。だから、(現代の)ミステリからポスト・トゥルース時代の生き方を学べるのではないか、という切り口が面白かったです。
完璧な論理より、速い汎用性が優先される
真実・論理が必ずしも重視されない時代が起こってきているのはなぜか。僕は「速さが求められる」という本書の指摘が、ネット・SNSの本質を言い表していると思いました。
素早いゾンビが出てくる『ワールド・ウォーZ』を引き、ゾンビをメディアにより速度へ駆り立てられた人間のメタファーとして捉えながら、著者は次のように述べています。
とはいえ、謀略やイデオロギーを仕掛けている邪悪な存在が明確にいるというわけではないかもしれない。
私たちの感性や認識が素早い速度に訓練された挙句、理性的な判断ではなく情動による判断をしやすくなり(それが「反知性主義」に見えることもあるだろう)、現実検討能力が希薄化していくのは、特定の誰かのせいではない。テクノロジーの発展に伴い、私たちを取り囲むメディア環境が変化したことに起因する。非人間的な主体(メディア、資本、テクノロジー)が発展し、そこに私たちは喜んで時間と資源を投下し、ゲームをしたりSNSをして脳を喜ばせている。非人間的なものたちに対し、人間が喜んで加担しこの状況が生まれている。ポスト・トゥルースや情動政治の震源地はここにある。人間の欲望とメディアの野合の中に。
引用:『娯楽としての炎上――ポスト・トゥルース時代のミステリ』 pp.255-256
ポスト・トゥルースという言葉を引いて一般に述べられる、「人々が感情的な判断を重視するなった(のが悪い)」といった言質に、僕は懐疑的です。むしろ先に述べられるような、即時反応が求められるメディア(SNS)が発達してきたこと、それが顧みられるのが妥当だと思っています。
行動経済学の本「ファスト&スロー」が話題になっているのも、こうしたファストな「直感」とスローな「ロジック」という人間の思考の性質が、SNSを通して表れているからではないでしょうか。
渡邉大輔「検索型ミステリ論」を引いている箇所(pp.90-91)でも、ネット犯罪では即時的な反応を要求されるので、完全な論理よりも、汎用性のある論理が必要とされる、と書かれています。
このことは、僕がサイトを運営していても思うことです。何か事件が起こった、すぐさまに真実が定まらないが、しかし概要を知りたい読者(ネットユーザー)がいるとき、求められるのは素早さです。
確かに、新聞や本、大手メディアの方がより確実で信頼できる情報が書かれていることが多いのですが、それは「今起こっている出来事」に対応できません。ウェブでは「不確実なことを書いてはいけない」と恐れて書かないよりは、不確実さがあると前置きした上で書くことが求められています。ウェブの情報はデマを含み問題があると指摘するのは正しいですが、一方で速度もなければ一般のユーザーに適切な情報を広めることはできないのです。
マクルーハンは、新たに登場するメディアは人間を拡張・改造すると主張しました。電気のメディアであるインターネットは、実際に人間を即時応答するように改造したと思いますが、その変化に気づく人が増えると良いなと思います。
参考:メディアは人を改造する マクルーハン「メディア論」を読む
炎上・匿名空間への恨みが強すぎる
本書は、具体的なミステリ論作品の批評は面白かったのですが、炎上・匿名空間への著者の個人的な恨みが強すぎると感じました。
『君島シリーズ』を引いた上とはいえ、匿名空間を「人をリンチするだけに帰結」というのは明らかに言い過ぎです。
人間が匿名になり、ネットの世界で接続され、集団的な存在になるという、ユングの集団的無意識なロマン主義の夢は、世俗化・現実化した場合、ネットで人をリンチするだけに帰結した。
引用:『娯楽としての炎上――ポスト・トゥルース時代のミステリ』 P.124
確かにリンチと呼ぶべき現象はありますが、それだけが匿名ではありません、Wikileaksを引き合いに出すでもなく。そもそも、学術的なワードを引き出して、ネット上の人を論理的でなく非難するのは、それ自体が炎上を招きます(日本におけるポストモダン的文章に僕が疑問を抱く一因)。正しい、あるいは知識があるからといって、一般の読み手への配慮を忘れてはいけません。(ほかにも、結論を断言しすぎる社会分析がいくつか見られました)
この記述に限らず、ネットのネガティブなニュースに言及するのは良いのですが、それをネット全体への悲観にしてしまう部分は、共感できませんでした。確かに著者は何かしらの経験から絶望したのかもしれませんが、その個人的な経験が書かれていないので、ネット空間への認識・政治や社会への認識が、噛み合わない部分が多いのです。
また、ミステリの性質に引きつけて語っているとはいえ、「炎上=私刑」のような図式化・断罪が多すぎます。確かに、スマイリーキクチさんのケースの炎上は私刑としか言いようがないと思いますが、炎上全般がそのような悪しき裁判の性質であるとは思いません。例えば、既存の価値観と新しい価値観がぶつかって起こるような炎上は、必ずしも裁判性が強くありません(正義のぶつかり合い)し、社会を良い方向へ変化させうるものと考えています。
参考:良い「炎上CM」と悪い「炎上CM」を分けるものとは何か?【連載】幻想と創造の大国、アメリカ(6) – FINDERS
また、「ゼロ年代」という言葉をどう認識しているのかも、僕にはよくわかりませんでした。「ゼロ年代に夢見られてきたものが悪夢的に回帰してきたのがポスト・トゥルース時代であるとすると(p.265)」と書かれる部分は、「ゼロ年代の夢」の議論を通ってきた人なら共感できるのでしょうか?
僕も00年代にネットを利用していましたが、批評の界隈に近づいたことはなく、ネットに特別に夢のようなものは感じていませんでした(夢ではなく、オルタナティブな現実だった)。
確かに、梅田望夫「ウェブ進化論」や、東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』などウェブの民主主義に期待を抱く論はありました。一方で、僕個人としては、2ちゃんねるなど匿名的インターネットに触れていたので、特別ネットに期待はしていませんでした。
最近では、「ポスト・トゥルース」という言葉で、ネット上のデマなどが問題視されるようになりましたが、その性質はずいぶん前から存在していたものです。もともとネットって、速報性と不正確性を併せ持つものだったのではないでしょうか(あまり知られていないのかもしれませんが)。
経済的にも社会的にもネットを利用する人が増えたから、ネット上における「真実や論理」といったテーマが、議論される価値があるものと考えられてきているのだと思います。
ただし、著者の記述に自己反省が見られないわけではありません。「評論・論理的であることにより、読者の自尊心」をかきたてている、あとがきで「一面的になりすぎた部分もある」という自覚はあるようです。僕もまた、非論理に対する断罪意識には共感できないとはいえ、論理的な考え方を尊重したいと思っています(でなければ本を読まない)。
問われる「実践倫理」
話を本に戻しましょう。『娯楽としての炎上』がユニークなのは、単なる批評書ではなく、実践倫理という視点を打ち出している点です。
ポスト・トゥルース時代には、明確な答えがなくても生きなくてはならない。現代のミステリは、純粋なパズル・遊戯としての性質が弱まってきて、モラルやジレンマを読者に問いかける傾向がある。
著者もあとがきで、虚構と現実が区別される時代が来るとは思っていないが、だからといってあきらめるわけにはいかないと書いています。「真実とウソ」が原理として区別可能ではない、だからこそ問題は「倫理」の次元に移行すると。
少し本書から話がずれて僕の個人的な話になってしまいますが、僕もこの実践倫理を重視する姿勢を持っています。例えば人文学の研究であっても、原理と行動を分離させてしまうのではなく、どちらも同時に行いたいものです。
僕はこのサイトで、「ネット文化」と称して、淫夢やクッキー☆や恒心教といったアングラ性をもつ文化も紹介しています。
アングラなネット文化を、単なる「フィクション」の枠に入れて笑うのには、僕は抵抗がある。
一方で、サイトで淫クの紹介をするのは、差別の再生産なのではないか、と批判されうる。それは部分的に正しいと思っている。— 木村すらいむ (@kimu3_slime) February 2, 2019
じゃあなんでそんなことをやるのか。
個人的な経験として、クについて調べていた頃、「クッキー☆wiki」が検索エンジンで見つかったことがある。
一般人の個人情報をガン掘りしつつ、偏った視点で紹介している。
なぜこれが検索に出るかというと、より良いサイト・記事がないから。— 木村すらいむ (@kimu3_slime) February 2, 2019
となれば、目の前には2つの選択肢がある。
1. 個人情報掘ってる文化が悪いと糾弾(あるいは見なかったことに)
2. より良い記事を作り、不適切な情報が目に止まりにくいように
僕は、放置されたまま見過ごすよりは、(再生産の可能性ありとはいえ)良い情報を提供する方が、倫理的と考えている。— 木村すらいむ (@kimu3_slime) February 2, 2019
きわどい対象でありながらも『文脈をつなぐ』で取り上げるのは、まさに実践倫理的な側面によるものです。ネットのごく一部で始まり、評価が確定していない(より一般には悪いと思われることの多い)文化だからこそ、悩みながらも慎重に取り上げていきたいと思っています。
仮に真実性あるいはポリコレ的正しさを重視してウェブに文章を書かなければ、誹謗中傷や個人情報特定を含む2ちゃんねる・まとめサイト・wikiサイトの情報に人々が触れ続けることになります。
ウェブ的素早さで起こっている社会変化に応じて、(相対的にマシな)モラルを持たせるなら、同じウェブに文章を書いて届けることがまず必要でしょう。
プラスで、時間の経過に耐えられる客観的で慎重な分析もまた必要とも考えています。これはウェブの苦手な仕事です。体系として論じるのはウェブ(特にブログ)が苦手とするところですが、『文脈をつなぐ』はサイトとして入門文書をいくつか書いています。
参考:「文脈をつなぐ」のミッション 「例のアレ」を書き続ける理由
『娯楽としての炎上――ポスト・トゥルース時代のミステリ』は、「炎上弁護士」と比べるとやや難しい語り口ですが、そのぶん炎上と社会変化をめぐる大きな問いを与えてくれる本です。ぜひ読んでみてください。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。