どうも、木村(@kimu3_slime)です。
「ひとは服なしで生活することはできない」そんなキャッチフレーズに興味を持ち、手に取った本が鷲田 清一「ひとはなぜ服を着るのか」でした。
バーチャルYouTuber・アバターについて考えるヒントにならないかとなんとなく思って読んだのですが、ファッションと関係のある話が思っていた以上にあり驚きました!
教科書というよりはコラム・短編論考集といった形式で、読みやすいです。
「自分」の輪郭は、思っていたより不確かだ
衣服が物理的に体を守る、でもそのためだけに人は服を着るわけではありません。
まず指摘されるのは、自分の体は、そこから痛みを感じるように自分のものだけれども、(鏡などがないと)その見た目を自分自身で見ることはできないということ。
スポーツをして体の表面がドキドキしたり、シャワーで体を流すのが気持ちいいのは、体(自分)の輪郭がはっきりして、不安が減るからだ、という説があります。
参考:サイモン H.フィッシャー からだの意識
確かに、服がこすれて体に当たるから体ってわかるわけで、裸だとそういうのわかんないんですよね(普段そんなこと意識してませんが)。あと、布団に包まったりして落ち着くのは、単に体が守られるだけでなく、体のイメージができるから、という話は新鮮です。
自分という存在は、思ったよりも当たり前ではなく不確かなもの。だからこそ人は服を着るのだ、という話ですね。
例えば自分の体を自由にして良い確認としてピアス開けをしたり、階級の差を減らすためにスーツを着たり、制服を着ながらも個性を出すために着崩したり。
自分のことは部分的にしか経験できない、かゆみや痛み、音や光はバラバラに入ってきて、全体としての自分は、どうやっても想像するしかありません。
僕が衝撃を受けたのは、「自分の自分に対するイメージこそが第一の衣服である」という根本的な衣服観です。
想像された自己の身体像こそがわたしたちが身にまとう最初の衣服だとすると、衣服はもはやわたしたちの存在の覆いなのではありません。それなしにわたしたちはじぶんの存在を確定できないわけですから、それはむしろ、わたしたちの存在の継ぎ目ないしは蝶番(ちょうつがい)とでも言うべきものです。衣服は人間という存在のギプスである、と言ってもいいかもしれません。この<像>としての身体こそがわたしが身にまとう第一の衣服であるからこそ、わたしたち人間は、繊維を編みだすよりもはるか以前から、皮膚をまるで布地のように裂いたり、引っかいたり、あるいは皮膚に線を引いたり、顔料を塗ったり、異物を埋め込んだりしてきたのです。
引用:ひとはなぜ服を着るのか p.31
皮膚の表面にまとう服だけが服なのではなく、自分が想像する自分、それこそが最初の衣服であると。
これって、めちゃくちゃアバター・バーチャルYouTuberに通ずる話だなと思って。単に仮装キャラクターとしてのビジュアルを手に入れるだけでなく、それによって人格がキャラクターを得ること、それが肝なわけです。
服・アバターというものは、見た目がどうこう・イケてるイケてないの話だけでなく、「自分の見た目をどうするか」「自分をどう見せたいか」「自分自身をどう想像するか」というように、自分の認識・想像にかかわる人間にとって極めて根本的な存在なんですよね。
この話が、衣服・ファッションから続く流れであると明確に説明されたので、「ひとはなぜ服を着るのか」を読んで良かったと思いました。
ファッション×文化に対する社会の蔑視
本書後半、ファッション・モード研究の立ち上げ、その苦労話にも共感しました。
衣服の生産に関する技術的な研究は評価されても、風俗としてのファッションの歴史やファッションの流行を社会学的に研究をすることは、学問の主流から見て「亜流」とされてきたそうです。
かつて耳にしたところでは、さる高名な私立大学の美術科で「刺青」について、あるいは「ぬいぐるみ」について、あるいは「ぬいぐるみ」について卒業論文を書こうとして、先生にそれは学問の対象にはなりえないと拒絶された例がある。これはおそらく例外的な事件ではないだろう。
これは他人事でない。わたし自身がーーわたしは大学ではいちおう西洋哲学・倫理学の教師として講義をしているーー哲学者でありながら、ファッションについて文章を書きだしたときは、相当な抵抗があった。抵抗といえばかっこいいが、要するに侮辱され、冷笑されたのだった。
引用:ひとはなぜ服を着るのか p.258
歴史や権威がある音楽や美術領域の話って、格が高い「文化」として価値あるものとされ、研究として意味があると思われやすい。
しかし、ファッションなど新しい(と思われやすい)カルチャーの研究は、馬鹿にされやすいんですよねえ。
僕もネット文化、ネットの流行現象、ニコニコ動画やバーチャルYouTuberのことは、学術的に調べていきたい・対象として価値があると思っていて、その中でこうした蔑視を受ける可能性を覚悟しなければならない、と思いました。
著者の鷲田さんから学ぶことは、ファッションを「自分の存在に関わること」とあらゆる人間にとって大事なテーマ(哲学)と結びつけているから、ファッション学・モード論が大切だと思えるんですよね。
僕もネット文化を紹介するときに、時間軸・文化軸で相対化し、だんだん根本的なテーマと結びつけた上で語れるようになりたいなと思ってます。
メディアを通した(二次)創作・コミュニケーションの研究を軸にしたいと思っているので、そのへんの本を読んでいきます。
「ひとはなぜ服を着るのか」は2部構成。
第一部 人はなぜ服を着るのか
第二部 <衣>の現象学ーー服と顔と膚と
今回紹介したのは、1部の「気になる身体」と2部の「モードのお勉強」というコラムで、それぞれ15ページ程度で短くまとまっています。
エピローグでは、ロラン・バルト「モードの体系」やボードリヤール「象徴交換と死」など、ファッション・モードを学ぶ上で基本的な文献も紹介されています。
「ひとはなぜ服を着るのか」はVTuber・アバターを考える上で、単なる寄り道ではない根本的なテーマを語っているので、ぜひ読んで欲しい本のひとつです。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。